電気自動車の静粛性、新たな評価モデルが登場
電気自動車(EV)の普及が進む中、自動車メーカー各社の競争のフィールドは、航続距離や充電インフラといった基本性能から、より洗練された「体験」へと移行しつつある。その中でも特に注目されているのが、車内空間の「静粛性」である。内燃機関の爆発音という最大の騒音源が消滅したEVは、本質的に静かな乗り物である。しかし、この静けさが逆に新たな課題を生み出している。風切り音、タイヤと路面の摩擦音(ロードノイズ)、エアコンのファン音など、従来はエンジン音にかき消されていた微細な音が、今や乗員の耳に直接届くようになっている。特に、電気モーター特有の高周波の「キーン」という音(モーターホイッスル)は、長時間の運転で耳に疲れや不快感を与える要因となり得る。つまり、EVの快適性はもはや「音の大きさ」だけではなく、「音の質」に大きく左右される時代に突入したのだ。
こうした背景の中、車内音の主観的不快感を正確に測定し、車両開発に活かすための新たな科学的アプローチが登場した。中国の研究チームが発表した研究成果は、EVの音響設計に新たな指針を示すものとして、自動車業界に波紋を広げている。この研究は、実際の道路走行データを用いて、従来の音響評価モデルの限界を明らかにし、より適切なモデルを提唱している。これは、単なる学術的な成果ではなく、今後のEV開発の方向性を大きく左右する可能性を秘めた実用性の高い研究である。
研究を主導したのは、汎亜汽車技術中心有限公司(Pan Asia Technical Automotive Center Co., Ltd.)の王偉東(Wang Weidong)氏と、上海交通大学機械システム振動国家重点実験室(State Key Laboratory of Mechanical System and Vibration, Shanghai Jiao Tong University)の繆振菁(Miao Zhenjing)氏、黄煜(Huang Yu)氏のチームである。彼らの研究論文は、音響工学分野の権威的な学術誌『Noise and Vibration Control』に掲載され、その信頼性と重要性が認められた。研究の核心は、「心理音響学的不快度(Psychoacoustic Annoyance)」という概念を用いて、客観的な音の物理特性と、人間が感じる主観的な不快感の間にある複雑な関係を、数式でモデル化することにある。
従来、騒音の評価は「A特性音圧レベル(dB(A))」という指標に大きく依存してきた。これは、人間の耳の感度に合わせて周波数を補正した音の大きさの測定法であり、一定の有効性を持つ。しかし、EVの静粛な環境では、この指標だけでは不十分であることが分かってきた。例えば、音の大きさ(ラウドネス)が同じでも、高周波成分が多い「鋭い」音は、低周波成分が多い「鈍い」音よりも不快に感じられる。また、音が一定ではなく、脈打つように変化する「うねり」や「ざらつき」も、大きなストレス源となる。これらの主観的な質感を捉えるために、心理音響学という学問が発展してきた。ラウドネス(音の大きさの知覚)、シャープネス(鋭さ)、ラフネス(粗さ)、フラクチュエーションストレングス(うねりの強さ)、トナリティ(純音性)などが、その主要なパラメータとして知られている。
王氏らの研究の画期的な点は、そのデータの「現実性」にある。多くの先行研究が、音響実験室で録音した音源や、特定の条件下でのシミュレーションデータを使用していたのに対し、このチームは実際の道路でEVを走らせ、リアルな環境音を収録した。研究対象のEVは、アスファルト、コンクリート、砂利、凸凹路の4種類の典型的な路面を、10km/hから110km/hまでの様々な速度で走行した。各走行条件で、車内(特に助手席左耳位置)の音を精密なマイクで記録し、合計16種類の音声サンプルを抽出した。このアプローチにより、風の音、タイヤの音、サスペンションの振動、モーター音などが複雑に絡み合った、実際のドライビング体験に忠実な音環境を再現することに成功した。これは、実際のユーザーが体験する「不快感」を正確に評価する上で、極めて重要な一歩である。
次に、これらの16種類の音声サンプルを用いて、30人の被験者(男女各15人、21〜29歳)による主観評価実験が行われた。評価は、国際的に広く用いられるICBEN(国際生物学的効果委員会)の不快度スケールを基にした方法で実施された。被験者は、音声をヘッドフォンで聴き、0(全く不快ではない)から10(極めて不快)までの11段階で、その音に対する不快感を評価した。実験では、音声の再生順序をランダム化することで、順序によるバイアスを排除している。結果は、予想通り、車速が上がったり、路面が荒れたりするほど、主観的な不快感が高まるという明確な傾向を示した。これは、音圧レベルやラウドネスが高くなることと一致しており、音の「大きさ」が不快感に大きな影響を与えることを裏付けている。
しかし、研究の真価は、この主観評価の結果と、音声サンプルから計算された各種心理音響パラメータとの相関関係を深く分析した点にある。研究チームは、ラウドネス、シャープネス、ラフネス、フラクチュエーションストレングス、トナリティの5つの主要なパラメータを、ISOやECMAなどの国際規格に基づいて計算した。そして、これらのパラメータが主観的不快度にどのように寄与しているかを、統計的手法で解明しようとした。
その分析の結果、いくつかの重要な知見が得られた。まず、ラウドネスは不快感と強い正の相関があり、最も大きな影響を与える要因であることが確認された。次に、車速が上がるにつれて、モーターの回転数が上がり、その高調波成分が高周波領域にシフトするため、シャープネスも顕著に増加することが分かった。これは、EVの特徴的な「高音質」が、高速走行時に不快感を増幅させる一因であることを示唆している。さらに興味深いのは、ラフネスとフラクチュエーションストレングスの影響である。これらのパラメータも不快感と関連しているが、その関係は複雑で、音の大きさ(ラウドネス)の影響を除いて分析すると、その相関の向きが変わることもあった。これは、これらの「音の揺らぎ」が、音が大きい環境では不快に感じられるが、音が小さい環境ではかえって中立的、あるいは一定のリズム感として受け入れられることを意味している可能性がある。
最も衝撃的な発見は、トナリティ(純音性) に関するものだった。多くの研究では、モーターの「キーン」という純音的な音が、不快感の主要因であるとされてきた。しかし、この実道路走行データを用いた研究では、トナリティと主観的不快度の間に、統計的に有意な相関関係は見られなかった。これは、実際の走行環境では、風切り音やロードノイズといった「広帯域ノイズ」が、モーターの純音をマスキング(覆い隠す)しており、その不快な影響が相対的に小さくなっていることを示している。つまり、開発現場で「純音をいかに消すか」に過度に注力するよりも、まず「全体的な音の大きさ(ラウドネス)」と「音の鋭さ(シャープネス)」を抑えることが、より効果的な静粛性向上の鍵である可能性を示唆している。
この重要な知見を踏まえ、研究チームは、複数の既存の「心理音響学的不快度モデル」の性能を比較した。代表的なものとして、FastlとZwickerが提唱したモデル(PAZwicker)がある。このモデルは、ラウドネス、シャープネス、ラフネス、フラクチュエーションストレングスの4つのパラメータを組み合わせて不快度を予測する。一方で、変圧器や航空機の騒音を対象とした研究では、トナリティを加えた修正モデル(PADiやPAMore)が提案されている。
研究チームは、これらのモデルに自らの実験データを入力し、どのモデルが主観評価の結果を最も正確に予測できるかを検証した。その結果は驚くべきものだった。トナリティを含まないオリジナルのZwickerモデル(PAZwicker)が、最も高い予測精度を示したのである。 その決定係数(R²)は0.905と非常に高く、主観的不快度の90%以上をこのモデルで説明できるという驚異的な結果となった。一方、トナリティを加えた修正モデル(PADiやPAMore)は、予測精度が著しく低下した。
この結果は、非常に重要なメッセージを自動車業界に送っている。それは、「EVの車内騒音評価には、汎用性の高いZwickerモデルが最も適している」ということだ。複雑な修正を加えるよりも、シンプルで普遍性のあるモデルの方が、現実の複雑な音環境をより正確に捉えることができる。これは、開発現場における評価プロセスを大きく簡素化し、より効率的な音響設計を可能にする。エンジニアは、複数の複雑なモデルを試すのではなく、Zwickerモデルを主要な指標として用いることで、車両の静粛性を定量的に把握し、設計の改善点を明確にできる。
この研究は、EVの音響設計におけるパラダイムシフトを促すものである。今後、EVの開発では、モーターの高周波音の除去に過度にリソースを割くのではなく、まず車体の剛性向上、サスペンションのチューニング、タイヤの選定、空力設計の最適化などにより、全体的な音圧レベルとシャープネスを低減することに重点が置かれるだろう。そして、その効果をZwickerモデルで定量的に評価し、継続的に改善を図っていくことが、真の意味での「高級感」や「快適性」を実現する道となる。
王偉東、繆振菁、黄煜、『Noise and Vibration Control』、DOI: 10.3969/j.issn.1006-1355.2024.03.026