ステアリング故障時も走行を維持、EVの差動操舵技術が新たな安全性を提供
電動車両(EV)の普及が加速する中、安全性に対する要求はますます高まっている。特に、自動運転技術の進展に伴い、従来の機械的な冗長性に加えて、電子制御システムの信頼性とフォールトトレランス(故障耐性)が重要な課題となっている。そんな中、中国・武漢理工大学の王重磊(ウォン・チュンレイ)氏らの研究チームが、画期的な安全技術を発表した。その内容は、フロントステアリングシステムが完全に故障した場合でも、車両が安全に走行し、運転手の意図した軌跡を追従できるようにするというものだ。この技術の鍵は、EVの特徴である「ホイールモーター」にある。
従来の自動車では、ステアリングホイールの操作がステアリングシャフト、タイロッドなどを通じて直接前輪に伝達され、車両の向きを変える。しかし、この機械的なリンクが何らかの理由で断たれれば、運転手は車両の方向を制御できなくなる。一方、ホイールモーターを搭載したEVでは、各車輪が独立したモーターで駆動されている。この特性を活かし、王氏らのチームは、フロントステアリングが機能しなくなった際、左右の前輪モーターに異なるトルクをかけることで、車体にヨー(横滑り)モーメントを発生させ、結果的に車両を曲げることを可能にする「差動操舵制御」を提案した。これは、推進システム自体を「バックアップステアリング」として機能させる、極めて革新的なアプローチである。
この研究成果は、2024年3月号の学術誌『機械科学与技術』(Mechanical Science and Technology for Aerospace Engineering)に掲載され、その重要性が認められた。タイトルは『小曲率路面车辆差动转向与横摆稳定性集成控制研究』(小曲率道路における車両の差動操舵とヨー安定性の統合制御に関する研究)。研究チームは、単に方向を変えるだけではなく、その過程で車両が不安定になって横滑りするリスクを防ぐために、高度な統合制御システムを構築した。
バックアップステアリングの実現:差動操舵のメカニズム
この技術の核心は、車両の動力学を巧みに利用することにある。車両の前輪に左右で異なる駆動力または制動力をかけると、その力の差が車体の重心を中心に回転するモーメント(ヨー力)を生み出す。例えば、右前輪に大きな駆動力を、左前輪に小さな駆動力または制動力を加えると、車体は左方向にヨーする。この原理は、戦車の「差動式操舵」や、一部の高性能EVがコーナリング性能を向上させるために用いる「トルクベクタリング」と似ている。
しかし、王氏らの研究が画期的なのは、これを「補助的な機能」ではなく、「主なステアリングシステムが完全に機能停止した場合の唯一の操舵手段」として位置づけている点だ。これは、ステアリングバイワイヤー(steer-by-wire)システムの普及が進む中で特に重要だ。ステアリングバイワイヤーでは、ステアリングホイールと車輪の間に物理的な連結がなく、電子信号で制御される。このため、センサーやECU(電子制御ユニット)、モーターのいずれかに故障が発生すると、即座に操舵不能の状態に陥る可能性がある。差動操舵は、このような「シングルポイント・オブ・フェイルアー」に対処するための強力な冗長性を提供する。
「将来、多くの車両がステアリングホイールと車輪の間に物理的な接続を持たなくなるでしょう。そのような時代において、故障した際にも安全に停止できる能力(フェイルセーフ)は、絶対的な優先事項です」と、同研究の責任著者であり、武漢理工大学の汪怡平(ウォン・イーピン)教授は語る。「我々の研究は、推進システム自体が信頼性の高いバックアップソリューションとなり得ることを実証しています。これは、方向制御と車両安定性の両方を確保するものです。」
二重の安全網:LQRとファジィPIDの統合制御
単にヨー力を作り出すだけでは不十分だ。その力が大きすぎれば、車両はスピンしてしまうし、小さすぎれば意図した方向に曲がれない。また、連続して曲がるような状況では、車体の重心が路面に対して斜めを向く「横滑り角」が大きくなり、不安定な状態になる。このため、王氏のチームは「二重閉ループ制御」アーキテクチャを採用した。これは、二つの高度な制御アルゴリズムを連携させることで、精度と安定性の両立を図る。
第一のループは「LQR(線形二次レギュレータ)」に基づく差動操舵制御ループである。このループの目的は、運転手がハンドルを切った角度や、車両が曲がるべきヨー角速度に、実際の車両挙動をできるだけ正確に追従させることだ。LQRは最適制御理論の一種で、複数の制御目標(例えば、ヨー角速度の誤差と前輪操舵角の誤差)と、制御に伴うコスト(例えば、モーターにかけるトルクの大きさ)を、事前に設定した重み付けでバランスを取りながら、最適な制御入力を計算する。このループは、車両が「どこへ行くべきか」を決定し、そのためのヨー力(トルク差)を計算する「ナビゲーション」の役割を果たす。
しかし、LQR制御だけでは、長時間にわたる連続操舵や、急激な状況変化に対して、車両の横滑り角が徐々に大きくなるという問題が生じる。これを防ぐために、第二のループとして「ファジィPID制御」に基づく横方向安定性制御ループが設けられている。PID制御は、誤差(Proportional)、誤差の積分(Integral)、誤差の変化率(Derivative)の三つを使って制御量を決める非常に一般的な手法だが、そのパラメータ(Kp, Ki, Kd)は固定されている。これに対して、ファジィPID制御は、状況に応じてこれらのパラメータを動的に調整する。
この制御ループは、車両の横滑り角が目標値(通常は0度に近い)からどれだけずれているかを監視する。例えば、横滑り角の誤差が大きいとき(車体が大きく斜めを向いているとき)、システムは「プロポーショナルゲイン(Kp)」を大きくして、迅速に応答しようとする。しかし、同時に「ディフィレンシャルゲイン(Kd)」を小さくして、過剰な修正による振動(オーバーシュート)を防ぐ。誤差が小さくなって安定状態に近づくと、今度は逆に、振動を抑えるためにKpを小さくし、安定性を優先する。このように、ファジィ論理は人間の経験則を模倣し、「状況に応じて柔軟に制御戦略を変える」ことで、車両の「安定性」を確保する「セーフティネット」の役割を果たす。
シミュレーションで実証された有効性
この統合制御システムの有効性を検証するために、研究チームは「Simulink」と「CarSim」という二つの業界標準のシミュレーションソフトウェアを連携させた。シミュレーションの対象車両は、4輪にホイールモーターを搭載したEVで、具体的なパラメータ(車両重量1,500kg、ヨー慣性モーメント2,000kg·m²など)は実際の量産車に近いものを使っている。
シナリオは、摩擦係数0.85の高グリップ路面を時速36km(10m/s)で走行し、運転手が正弦波状にハンドルを切る(連続して左右に曲がる)というものだ。ここで、二つの故障パターンを想定した。
パターン1:2秒後にステアリング故障 故障直後、差動操舵システムが働かなければ、車両は故障した瞬間の進行方向にまっすぐ進み続け、参照軌跡から大きく逸脱してしまう。しかし、差動操舵システムが作動すると、車両は参照軌跡に沿って走行を続け、最大で0.3メートル程度の小さな誤差で軌跡を追従できた。これは、システムが故障直後に迅速に介入し、制御を回復できることを示している。
パターン2:0秒(最初から)ステアリング故障 より厳しい条件として、最初からステアリングが故障している状態を想定した。このシナリオでは、LQR制御だけの差動操舵と、LQR+ファジィPIDの統合制御を比較した。その結果、LQR単体では、連続操舵の過程で軌跡追従誤差が徐々に蓄積し、最大で0.42メートルまで拡大した。一方、ファジィPIDによる横方向安定性制御が加わった統合制御では、最大誤差を0.21メートルに抑えることに成功した。これは、単に方向を変えるだけでなく、車両の挙動そのものを安定させることで、長時間にわたる高精度な操舵が可能になることを明確に示している。
さらに、横滑り角の変化を観察すると、統合制御システムは、連続操舵中に横滑り角が徐々に大きくなる傾向を効果的に抑制していることがわかった。これは、ファジィPID制御が、誤差の変化率に敏感に反応し、適切な制御パラメータを適用することで、車両の不安定化を防いでいることを意味する。
自動運転時代の安全性を支える基盤技術
この研究の意義は、緊急時バックアップという側面にとどまらない。自動運転(レベル4・5)の実現に向けて、車両の電子制御システムには「機能安全」の観点から、多重の冗長性が求められている。この差動操舵技術は、まさにその要件を満たす基盤技術となり得る。AIが判断する主な操舵システムが何らかの理由でダウンしても、このバックアップシステムが車両を安全な場所まで誘導する「フェイルオペレーショナル」機能を果たすことが期待される。
また、この技術は、自動運転車の「運動計画」にも新たな可能性を開く。急な障害物を回避する際、単にハンドルを切るのではなく、左右のモーターのトルクを微調整することで、より精密でスムーズな回避動作を実現できるかもしれない。
実用化に向けた協業と今後の課題
本研究の信頼性を高めているのは、実際の自動車メーカーである上汽通用五菱汽車(SAIC-GM-Wuling)との共同研究体制だ。学術的な理論だけでなく、量産車の設計に求められる現実的な制約(コスト、計算負荷、センサーの限界など)を意識した開発が行われている。
「このアプローチの優れた点は、その実用性にあります」と、上汽通用五菱のエンジニアで共著者である黄元毅(フワン・ユアンイ)氏は述べる。「特殊なハードウェアや膨大な計算能力は必要ありません。既存の車両通信ネットワーク(CANやEthernet)で十分に実現可能です。」
一方で、課題も存在する。最大の制限は路面のグリップだ。氷上やぬかるんだ路面では、モーターが発生させるトルクを路面に伝えることが難しく、十分なヨー力を得られない可能性がある。今後の研究では、後輪のブレーキ制御と連携するなど、制御の自由度を高めるアプローチが検討されるだろう。
また、制御システムが依存する「横滑り角」などの状態量は、直接測定が難しい。実際の車両では、加速度センサーやヨー角速度センサーのデータを統合的に処理し、これらの状態量を高精度に推定する「オブザーバー技術」が不可欠となる。
研究チームは、次なるステップとして、実車での検証を進めている。「シミュレーションは強力なツールですが、実際の道路でのテストに勝るものはありません」と汪教授は語る。「我々は、4つのホイールモーターと再構成可能な制御ユニットを搭載した試験車両で、この技術の性能を実証しようとしています。」
安全性の次元を変えるイノベーション
王重磊氏、劉珣(リュウ・シュン)氏、黄元毅氏、張成才(チャン・チェンツァイ)氏、汪怡平氏らの研究は、車両の安全性の定義を根本から見直すものだ。推進システムを単なる動力源ではなく、操舵という生命線を支える安全装置に変えるという発想は、まさに「パラダイムシフト」である。彼らが構築したLQRとファジィPIDの統合制御は、理論と実践の架け橋となり、自動車工学の新たな地平を切り開いている。
電動化、自動化、コネクティッド化が進む未来のモビリティにおいて、こうした「見えない」が「命を守る」技術が、最も重要な役割を果たすだろう。ドライバーがハンドルを握っている限り、そして自動運転システムが作動している限り、この技術は静かに待機している。しかし、万が一の故障が起きた瞬間、それは即座に主役となり、車両を安全な方向へと導く。その静けさと強さが、真の安全性の証なのである。
王重磊,劉珣,黄元毅,張成才,汪怡平,武漢理工大学,上汽通用五菱汽車有限公司,機械科学与技術,DOI: 10.13433/j.cnki.1003-8728.20220213